ラビオリ怖い: 海軍式嵐の夜の過ごし方

虚構の嵐

Fishermen's monument at Gloucester, MAマサチューセッツ州グラウスター港にある水没者慰霊碑の漁師の像。実際のパーフェクト・ストームによる犠牲者の名も刻まれている

「All is Lost:最後の手紙」という映画。日本語なら全てを失って、というところか。賛否両論。All is Wrongの間違いでしょとか今年最低の映画と評するものまである。ヨットと馬の映画にロクなものはない(リアリティ面で)とわかってはいるのだが、見て驚いた。こ、これは酷いという以前に正しいところがない。間違いが多いというのじゃない。間違ってないところが見つからないのである。まさにAll is Wrong. 

見たくないのに無理矢理見せられたワイルドアットハートもひどいと思ったがそんな感傷的なレベルじゃない。アレはマニアのトリビア心をくすぐるパロディを小出しにしつつだらだら続く真のやおい(ヤマなし落ちなし意味無しの意味で)変態映画だが蓮實滋彦氏の的確かつ痛快な評で溜飲を下げたからもういい。さすが評論以外にも職がある人は映画会社に気遣いせずに済む。閑話休題。

Kanagawa-oki-namiura by Hokusaiいわずと知れた北斎の名作。ハワイ沿岸のブレイカーもかくや。沖では多少の白波は立っても岸に近付くまでこんなに豪快に砕けないでしょうがオシログラフじゃあるまいし絵になりゃいいのだ

パーフェクトストームも嵐の中の船や波に対してのツッコミは多少ある(沖の大波は北斎と違い普通巻かない)ものの、生存者のいない「実話」を元に映像化したハリウッド作品ならそんなものだろうと諦めた。それにどの映画でもヨットの帆がパタパタしてるのに全速ですいすい進んじゃうくらいではツッコミを入れる気すら起きない程度には人生経験を積んだ。夜なのになぜか周りが明るかったり水の中で遠くが見えたりやたらと人食いサメが出没してももう泣かない。しかしこの映画は...。タンカー勤務のおっさんも文句垂れてた。キャプテン・フィリップスは我慢出来たがこれはあかんとの評。タンカーなんか1分くらいしか出てこないのにである。確かに誰も真面目に働いてないとしか思えない描写ではある。

冬の雨

とある2月の雨の日。寒いのでレース人数が揃わず、しょうがないからクラブでこの名作だか駄作だかの前評判高い映画を見ようぜ、という話になったのが間違いのはじまり。遺書めいたモノクロ独白セリフがナレーション付きで出て来た冒頭数秒で「ウザい」と脱落者一名。後にその先見の明に羨ましさを覚えるのだが、まだ皆はそこまで知らない。以降ネタバレ注意。読みたくない方は次の章までここから飛んでね。

映画ネタバレ注意

最初の不審な事故をものともせず異常にスローモーなロバート・レッドフォードに非難集中。まさかそのコンテナ津波で流れついた設定?などと本筋と関係ない心配でそれどころではなかった小心者の日本人が中国語だと安心したのもつかの間、どうせガイジンには漢字の違いがわからないから誤解されそうでヤダなあ、などと思い悩む暇は長くは与えられなかった。普通ならバルクヘッド(壁)跨いでキャビンからコックピットに出るところをわざわざ差し板外したり、そこら中にくくり付けてあるはずの緩衝用フェンダーもなしになぜかコンテナにラム戦を挑んだり。軽く横付けすればいいものを。

heeling sailboatこうすれば横穴から水が入りません

その後も嵐が来てるのにのんびりヒゲ剃ったりとか、船内じゃぶじゃぶなのにやたらとメシ食う場面だらけだったり、これはもうレッドフォードの老化が思ったより進んでいて、出演を依頼したものの彼の体力と運動能力で表現出来ることが余りにも限られていたために脚本を変えざるを得なかったんじゃないかとまで邪推したくなるトロさ。表情や感情表現もなく、ボケも入ってるんじゃないかと心配になるほど。

で、去年レースを始めたばかりの初心者の子供にまでなんで横穴開いてるのに船体傾けて走らないの?なんであんな重いコンテナにアンカー付ける必要があるの?なんでとっとと排水しないの?なんで嵐が来るって知ってるのにヒゲ剃ってて、そのあと救命具も付けずに暴風の最中に帆を替えようとか無茶してんの?縮帆すればいいだけじゃないの?なんで豪雨の中ハッチ閉めないの?なんでマストのてっぺんのケーブルがコネクターのところできれいに2本外れてるの?なんでなんで?と連発される始末。

海の男の我慢の限界

決定打は嵐の中クルーザーがひっくり返って逆さまになり、あまつさえその状態で停止したこと。物理法則に反しています。この時点でスピード2を超えました。もちろんハッチはでっかく開いたままなのになぜか船内に水は入らない構造です。そんな船があるなら欲しいよ。

Shields下に出っ張っている部分が全部鉛 最近のはもっと深い位置に重心が

現実にはこの手の外洋ヨットはうーんと下の方に出っ張ってでっかい鉛の塊があり、真横まで傾いたとしても転覆はせず、おきあがりこぼし状態で復元します。たとえ傾き過ぎて浸水し沈没することはあってもでんぐり返しはしません。ましてや嵐の海で逆立ち状態をキープなんて、クレーンで吊るにしたって難しい芸当です。ここでほぼ全員が怒ってリタイア。金を払ってストリーミングした哀れな人物が悪態をつきますが言い終わる間もなくマストを支える金属製の索がしょぼいナイフですっぱり切れることが判明。またワイヤーロープをたった一本外しただけで、折れ曲がったぶっとい金属マストがきれいに海に押し流されます。まあマストが折れないとは言いませんよ、1シーズンに2回折った自分がいますので。しかしそれを外すのがどれだけ面倒かもよく知っています。

潜水艦のセイルからの眺め鉄のクジラに呑まれた人は海軍に多数存在

その後も大人の事情を斟酌しない子供に「危ないからビニールの救命ボートでナイフ使ったり、使ったあと抜き身でそこらにぶん投げるのよしてよ!バカなの?死ぬの?」だの「ビニールボートの中でプラ缶燃やすとか自殺行為w」などと容赦なく野次られながらクライマックス?へ。ええもちろんお約束のサメも出演。こうして「ライフ・オブ・パイ」のほうがよほど現実的な映画がついに終わったのでした。だけどねえ、7つの海で航海したけど、どこ行ってもイルカはたくさんいたけどジョーズは見た事ない、と海軍の皆さんはおっしゃってます。サメフカに食われる心配より水に浸かってるうちに低体温症になるとか疲れ切って眠ると肺に空気の入ってる胸は浮かぶけど頭が沈んじゃうとか、そっちの方がよほどありがちな問題のはず。塩水とおしっこは絶対飲むなと言われてはいるけどノド乾いたよママン・・・。

感想:人生無駄にした

sailboat

この映画を見た人達がさらに船を誤解するだろうなあ、との悲しい思いにつきまとわれました。反応が鈍いのと冷静沈着は違う。前触れを無視して後手後手で泥沼に嵌るのと襲い来る危難に果敢に立ち向かうのは別。そもそも外洋航海をしようという人物は身体頑健で普通以上に慎重で用意万端、刻々と変わる気象情報に耳をそばだてタンクの燃料で余裕でたどり着ける範囲内が晴天続きでないなら港を出ない。それじゃ映画にはなりませんが、銀座みゆき通りならともかく、新宿3丁目交差点で車道にわざと飛び出すのはただの自殺願望、勇気じゃない。

船に伴走するイルカ船と伴走するイルカはよくある光景

でもこの映画を見て何の疑問も持たない人が佳作と評するぐらい、セイルボートは一般の人達の生活から乖離してるんだな、もうスポーツとしてのヨットの先行きは危ういと暗澹たる気持ちに。だってこれが自動車だったら配給に至ってません。みんなが運転したことのある車なら状況と運転手の対応の無理さ加減の連続なのがバレバレ、直接DVD販売以外に途はない。え、喋る上に変身する車の映画がある?いいんだよ日本人がいずれ開発するんだから。
警察関係の人はどうなんでしょう。世の中に溢れかえる刑事物を見ないで過ごしているのか、諦めきっているのか。ちょっと聞いてみたいところです。

あらしのよるに:士官学校編

さて、現実世界ではどうなるのか。例えばアナポリス海軍兵学校では夏休みに数週間の訓練航海をします。一年生から2年生になるときは兵卒のやる仕事をあてがわれます。主に甲板掃除とペンキ剝がし。3年生になる前にはいろいろな分野のお試しツアー。水上艦だけでなく潜水艦や飛行機なども体験します。3年生の終りには士官(見習い)扱いで水上艦に乗り込みます。これはある程度希望や融通が利きます。絶対どこそこの港の船が良いとか言い張るのはたいてい恋人さんがその近くにいるケース。また民間でバミューダレースや太平洋大西洋横断レースなどなど遠洋航海的な競技がいくつかあるのでヨット部の連中はそれらへの参加を訓練航海の代替として選ぶことも出来ます。

誰かがアナポリス海軍兵学校に寄付してくれたボート

ある年の夏。ロイ・ディズニーおじさんがヨットをくれました。特別に設計されたカスタムメイドのお船のひとつ、シャムロック改めエンタープライズ。自分用にもっといいの作ったから寄付して控除受けるって構図。もちろん海軍兵学校は他の大学に貸してあげられるくらい艇の種類も数も揃ってるんだけど、貰ったら一度くらいは使わないと礼儀にもとる。そこでこれを大西洋横断レースに出そうという話になった。
ただ一つ問題があった。エンタープライズは太"平"洋横断用に特化して造られた船だったのだ。

カリフォルニアから太平洋を渡る際、一度帆をセットしたらハワイまでそのまんまでOK。一定の方向から風が吹いてくるので方向転換も何も必要なし。追手に帆かけてしゅらしゅしゅしゅ。クルーなんかすることがなくてヒマすぎるくらい。貰ったのはその角度からの風で一番早く進める船なのだ。だがアメリカからの大西洋横断はそんなに楽ではない。でも船の形状は変えようがない。
だから帆のトリムなど技術でなんとか速度をあげられないかと一学期中ヨット部が必死で研究したけどおよそ無理なことが判明。絶対勝ちを狙えないとわかってるんじゃ若い男の子の気は惹けない。それでも一応学校代表、しかもその頃アナポリス海軍兵学校のヨット部は毎年余裕で大学全米第一位だったしで、誰でも参加出来るレースにボロ負けするといかにもまずい。

まあ長距離ヨットレースなんてのはウマの障害走と同じで途中何があるかわからないからあきらめずにゴールを目指すのが正しい態度である。だがこういったレースは同一設計の船が参加するわけではないので速度も様々。しかも大西洋横断の場合、風や潮や船の特性を考慮し各チーム(船)は別々のコースを取る。スタートから最初の一日くらいはともかく翌日からは海と雲と水平線以外見えなくなる。競争中だという緊迫感に乏しいことおびただしい。まわりにたくさん船がいて見えるゴールまでを競うのなら戦術とかあるけど、天涯孤独状況。はっきり言ってスクリュープロペラ回したって誰にもわかりはしない。単純に皆の良心に基づく競技なのだ。

大西洋横断レース

アナポリス海軍兵学校のレースボート、Brave

ともあれスタートは切られた。ヨーロッパに着くまで2週間は海の上である。全長52フィートの船に乗っているのは艇長含め士官3名と候補生の計12名。最上級生4名、3年生2名、プリーブ(最下級生)3名。全員ヨット部だが大型艇のクルーがほとんどで4年生の1名だけがディンギーチームから。小型艇では一人で全てをしなくてはならないので、大きな船で歯車の一つとして自分の仕事だけしか経験していないクルーより風や潮の読み方、タクティクスや船の扱いに長けている。
とはいえ発言権は航海長役の候補生の次くらいだからあんまり存在意義はない。その上に卒業したばかりの少尉さんと士官のコーチとアシ(卒業生に非ず)が二人もいては意見などいう機会もない。何しろ軍隊組織ですから、上の人へ通さずに勝手な発言や意見などしてはならないのである。

或る夜の出来事

アナポリス海軍兵学校のセイルボートのスピネカー

最初の4日間は何事もなく順風満帆。だがそこは大西洋、お決まりの悪天候が襲う。もちろん夜に。

風船のようにデカいスピネカーという帆が突然の強風をくらい水に落ち、マストのてっぺんに繋がった巨大バケツを引きずる状態に。船が傾斜を復元しようとする度に波を喰らって横倒し、海水がどんどん船内に流れ込む。あわや沈没の危機。このままでは全員夜の海でEパーブのシグナルだけを頼りにサバイバルを余儀なくされます。


アナポリス海軍兵学校のレースボートの舳先

ここでいつもワイルドな言動で評判の士官候補生Bが颯爽とレスキューに参上。即座にロープを断ち切ってマストからお荷物を解き放ち、ことなきを得ます。なぜか緊急時にナイフが手元にあるという種類の人物、映画なら山場の一つですね。言っておきますがこのひもはとても細いので、テンションかかってる状況なら一気にブチ切ることは可能です。某映画の金属ワイヤーロープとはわけが違います。

EPIRB水に浸かると自動で遭難信号を出してくれるEPIRBさん

それにしたってシェイカーのように翻弄される船のつるつる滑る甲板上で水を孕んだ巨大な帆のくびきを解こうというのですから体力気力のある若いもんでなきゃやってられません。水平なモノなんてない所でですよ。
こういうとき日頃の訓練がものを言います。アナポリス海軍兵学校のヨット部は毎日無理矢理数時間、雨でも雪でもハリケーンでも水の上に出て真剣勝負のレースを繰り返してますから悪天候くらいでは泣きません。それを知ってるからこそコーチが無謀な賭けにでてしまうのですが・・・。


無謀な挑戦

船は浮かんでいればいいというものではない。このスピネカ事故のせいで浸水30cm。流れ込んだ水がまずナビゲーション・コントロールセンターを直撃。これで航行用の電子機器は全ておシャカ。続いてエンジン水没。エンジンが動かないのではバッテリー充電ができない。残量は夜間の舷灯など灯火用に保存しておかねばタンカーに轢かれてしまう。こうして全ての電源を失う。冷蔵庫も死亡。温水器もダメ。無線も壊れて通信手段すらない。普通ならここで引き返す。何しろ戻るなら4日で済むが、目的地までは10日以上の道程だ。だが残念なことに艇長は脳みそまでマッチョな奴だった。レースを捨ててすごすご引き返すなんて男じゃねえ!俺は命と引き換えにしても男のプライドを守る!!君達は全米一のヨットマンだ、問題ない!

どこから見ても問題が山積みされているように思えますが巻き添えで引き換えにされる命の提供者たる生徒にたいした発言権はなく、艇長の下の大人たちも士官学校で厳しい先読み指導なんぞ受けてません。いや、一人受けてましたが卒業したばっかの少尉では何を言っても無視されます。厳然とした階級の壁。大人っていやぁね。

パーフェクトストーム

波を超える船真っ暗で波が20mだと想像してください

そうこうしているうちに新たな嵐に遭遇。何しろお天気情報など目に見える範囲でしか手に入りません。救助を要請しようにも他の船など見えず、見えたとしても連絡手段がありません。そしてまた次の嵐。お約束のようにいつも夜中、10mを超す大波です。気分としては絶叫ローラーコースター。波を垂直に上って降りるときも垂直…なワケないけど波の間隔が狭くてそう思いたい角度。そびえ立つ波を上りきったかと思ったらジェットコースターよろしく停止に近い状態から嫌ーな加速でおもいきり白く泡立つ波の谷間に突っ込んで船体が水没したかと思うとコルクのようにポンと浮かび上がりまた波の山を登る。ここでコークスクリューが入ると横倒しになり本当にヤバいので必死で波に舳先を向けなければなりません。操船ったって暴風雨の闇の中、足をすくう奔流と戦いながらのサーフィンです。映画にありがちな謎の光源なんてどこにもありません。せいぜい自前のヘッドライトくらい。

クリフハンガー

沿岸警備隊士官学校の練習船隠れる壁のある沿岸警備隊士官学校の練習船

もちろん皆さんお待ちかねの危機一髪な場面も登場。嵐の中では当然ながらクルーは船のどこぞにヒモ付けられたハーネスとライフジャケット着用のうえでサバイバル操船/水の掻い出し/その他をしていましたが、イレギュラーな横波に足を浚われ候補生一名が海に流されます。何度も言うようですが真っ暗闇の暴風雨の中、水に落ちたら見えるものじゃありません。たとえ見えたにしたところで戻って救助できるようなあまちゃんな大波じゃない。逆巻き泡にまみれ飛沫で前も見えない嵐の中です。命綱だっていつ切れるか知れたものじゃありません。

水難救助に向かう沿岸警備隊員

そこへあろうことかもう一人落ちてきます。無我夢中で流れ来る体を抱きとめたものの、無茶な角度とスピードで動く船にぐいぐい引っ張られてロープの位置がずれたのか絡まったのか、ウエストがめちゃ苦しい。それでも自分のテザー(命綱)が外れたと叫んでいる人間を手離すわけにはいきません。実際はまだちゃんと付いていたのですが、ちょっと長めだったので手応えがなかったと。もちろんそうとは知らない二人は必死。その状況ですぐに船に引き上げてもらえる可能性は際限なく低い。もう開き直るしかありません。落水の急報を聞いた寝てる連中が救助のために甲板に上がって来るまで、走る車やバイクの後ろに鎖で繋がれてオロシにされる気分。

さらには地面の上と違い呼吸の機会は波任せ。船に一息遅れてのジェットコースターライド。頭が水面に浮き上がった瞬間にかろうじて酸素補給。まあ最終的には救い上げられたのでこうして身の上話を語ることが出来てます。あとで気がつくとすねに穴が開いて骨が見えてたとか多少の不便は元気な若者ですから些細なことです。

南国バミューダをあとにして

sailboat Plenty

この様に日に日に資源が文字通り流出していったわけですが、士官候補生はこの期に及んでも毎日身だしなみを整えなければなりません。道具がないとか言訳は出来ません。まあ元々狭くて不人気な冷水シャワーを皆が使わなくなったくらいはたいした問題ではありません。夜な夜な塩水でざぶざぶ洗われてたし。合成繊維の帆袋の上で交代で雑魚寝はいつものことだし疲れているので気にしない。だが食料事情はちょっと違った。まず冷蔵庫が壊れた時点でよせばいいのに暴飲暴食。腐る前に食っちまえと。あと10日だから大丈夫ダイジョーブ。

宴は長くは続かなかった。何しろ料理なんかしたことのない人たちばかり。肉を塩漬けにするとか焼いたり日干しにしたり薫製にして少しでも長持ちさせるなんて思いつきもしません。そもそも買い出しを押し付けられたのがプリーブです。それも女子だからという理由で。一応X日の航海なら何をどのくらい積み込めという手引書はありますが、なにしろ一年生で経験不足ですからバラエティとか日保ちとか皆目見当もつきません。適当に買い集めました。あとでそれがどんなに悲惨な結果を招くとも知らず。

ここで断っておきますが、3人いるプリーブのうち2名が食料補給係だったので別に女の子に全部押し付けたわけじゃありません。缶詰なんか重いですからね、男手も必須です。ただ買い物という行為にセクシーな側面をなんら見いだせなかった上級生が面倒を奴隷に押し付けたというだけのことです。

宴のあと事件

さて、生鮮食料暴飲暴食の宴がそろそろ賞味期限に近づいて来た頃、また筋肉脳の大人艇長が余計な決断を下します。残りの食材で腐りそうなものは全部廃棄処分にしろと。冷蔵庫も道連れに。いや、船外投棄は食べたらお腹壊すステージまで待ってからでも遅くはないのでは?そう思ったのは発言権が5番目くらいの奴。到底発言権ぶっちぎり一位のコーチの提案を覆せるものではありません。煮炊きは出来たんだし、塩/砂糖/酢漬けとか胡椒まぶすとか乾煎りするとかいろいろあるような気がするんだけど。まあ主婦やシェフではないのでそこまで気が回りませんから反対するにも根拠が薄い。皆の万感の思いと共に冷蔵庫並びに可食品が波間に消えて行きます。まるで水葬。さようなら、マヨネーズさん。いかにも腐りそうじゃない?

バミューダの眺めあーあ、4日前まではここにいたんだけどなー

もちろん現実はそう予定通りには進みません。あと10日で到着するはずだった目的地イギリスが嵐だのなんだので13日先に遠のきます。食料投棄のせいで10分の1に減っている一人分の一日の食料割当を調整します。また嵐です。またも目的地が彼方に遠のきます。割当量を再度調整します。またまた嵐が。負の連鎖です。最初から余裕を持って20日分で計算させるような慎重な艇長なら今頃全員ホテルで熱いシャワーを浴びてシーツにくるまってます。ええ鍛えられましたとも。俺たち全員タフガイ+ガールだとも。これで満足か艇長さんよ。陸地まだぁ?

星よ今夜もありがとう

六分儀を使っての天測

そういうわけでどんどんゴールが遠ざかり、もう戻るも進むも同じくらい陸地から離れてしまいます。太陽と星が出ていなければ自分の位置さえ正確にはわかりません。あー授業で六分儀の使い方習ってて良かった。どこかの映画の主人公のように潮任せの浮きゴムボート上で昼間に太陽の角度を測って気休めに現在位置がわかった気になってるようでは死活問題です。このような非常事態に対応出来るよう、海軍士官候補生は必ず天測航法を教えられます。星と太陽が出てればですけど。日の出日没が見えればですけど。必要な図表と正確な時計と羅針盤とソフトウェアの入ったラップトップPCが揃ってればですけど。この当時はなんとか実用になりました。何しろラップトップなんかない時代です。手計算で微積分させられた時代です。それに天測を習ったばかりの理数系の若者が9人もいて良かったね。航海士でもない将校だったらとっくの昔に忘れてるだろうしね。

究極のパスタダイエット

Beef Ravioli can

位置がわかったからって旅程は短くなりません。無風の日だってあります。エンジンが使えないのですから風がなければ先には進めません。こうしてどんどん食料はなくなっていきます。そして最後に残ったのがシェフ・ボヤーディ印の缶入りラビオリ。なぜかスパゲッティとかはなく、ラビオリ缶のみ。これであと数日、陸地が見えるまで耐え忍ばねばなりません。計算すると・・はい、どんどんこれも少ない方に調整がかかりまして、最後には一人につきラビオリ7個/日。一個5cmサイズの、ぶよぶよにふくれかえったパスタにオレンジ色で油じみたソースが絡まっているだけの、それを朝ご飯に2個、昼ご飯2個、晩に3個。一応肉らしき固体は入っているものの、たぶんブレンダーにかけたところで味は変わらないであろうシロモノ。こうして若めの大人3名と人並み以上に健康な若い兄ちゃん8人+お嬢さん計12名がラビオリダイエットに突入。礼儀正しく規律を重んじる士官候補生と軍人でなければ暴動が起きたでしょう。ショッピングモールに偶然閉じ込められた烏合の衆なんかだったら目も当てられない惨状が展開したはず。

この時点で魚釣りの鬼才が現れても良さそうなものですがアメリカ人にとって魚は食料の範疇に入っていません。思いついたとしても皆度重なる嵐と修理と照りつける日差しにそんな余裕は残っていません。しかもあまりにも少ない食事量にだんだん皆の神経が逆立ってきます。あるときなど連日の、それも惨めな量のラビオリに完全に嫌気がさし大きな音を立ててテーブルに皿を置き席を蹴って立ち去った人が。その直後、彼が舐めずに皿に残したソースを巡って奪い合いが起こり、ついにつかみ合いの惨事に。いつもお行儀のいい士官候補生がつかみ合うなどという修羅場が展開するほどお腹が空いていた悲惨な航海。それでも無事というかなんというか、とにもかくにも人死にだけは出さずに8日間のラビオリに耐え、スタートから3週間後にようやくイギリス南端のワイト島、カウズ港に到着。終わりよければ全てよし。

棄権する勇気

Isle of Wight, bird's eye viewカウズ・ウィークの開かれるワイト島

いや、だれか大怪我でもしてたらそれこそ艇長さんの軍人人生に待ったがかかったはずですが、実際海軍の一番偉い人の息子も乗ってたし、乗ってなくても責任問題だったんすけど、3週間音信不通だったというのに、ごめんちょっと遅く着いちゃったぁ、あ,電子機器とエンジン壊れちゃったから直しといてね、で済んでしまいました。船はわざわざ兵学校からメンテ技師を呼んで修理。その後士官候補生達はヨーロッパでハーバーホッピングをしながら各地のレガッタ(レース)に参加し、パーティに明け暮れる楽しい生活を満喫。

そしてアゾレスあたりで船を乗り捨てた全員が飛行機で新世界に戻ったあと、哀れな少尉さんと技師さんが船を細かく直しながらアナポリス海軍兵学校まで運んだそうです。ファースティー(最上級生)達が休暇を取ってヨーロッパで遊んでいるのに、なぜ卒業して身分が上のはずの自分がこんな目に。こうして学生と社会人の差を身をもって体験してしまった少尉さんでした。

ラビオリ怖い

アナポリス海軍兵学校の一年生が夏期訓練で行うセールボートの基本操作訓練プリーブ操船体験中

それ以降、その船のクルーは全員ラビオリを見るのも嫌になり、三十年かそこら経った今でも未だにラビオリを注文することはないという。ま、そうだろうな。そしてその中のひとり、唯一の女子だった小柄でおとなしくてよく笑っていたプリーブのAちゃん。さすがは初期の気合いが入った女子士官候補生、転んでもただは起きない。どうせ誰も食べないだろうと缶詰食のチョイスにラビオリのみ大量に買い込んだ張本人はその後なんと補給部隊に志願し出世して海軍少将となる。補給の重要さを身をもって体験したあの航海が彼女の進路希望に影響したかどうかは定かではない。ちょっと聞いてみたいところです。

さて、どんなに偉くなってもかつての上級生の心の中ではいつまでたってもプリーブはプリーブ。いつもえへらへら笑ってたチビッチョがアドミラルなんて実感が湧かない。いや、へらへら笑う以外にどうしろというのか。実際には一年生を終えた夏休みの出来事であるからもうプリーブではないというものの、航海を終えて学校に戻るまでは2年生とは呼ばれない。そんな状態で上級生に囲まれて逃げ場のない海の上で、へらへらする以外にどんな処世術があるのかと。こんなことならダンガリー着て炎天下に中古艦のペンキ剝がしでもしてた方がよほどましだったとプリーブ3人は絶対思ったはずだ。

喜びも悲しみも幾年月

後の少将がアナポリス海軍兵学校の一年生のときの写真左端が少女A改め少将A 撮影:スネ夫

まあ相互認識の食い違いはともあれラビオリ怖い仲間にとってAさんの出世は感慨深い。自分たちはもうそんなに年を取ったのかと。アナポリスを卒業して10年海軍に居座れば最低ラインでも何か(5人乗り機雷掃海艇でもよければ)の艦長にはなるだろうから30年前のプリーブがアドミラルになっても別に不思議はないのだが。操船教えてあげたあのAちゃんがねぇー。全米代表クルーになったのは知ってたけど、いまや少将さんかぁ。スネに傷持つ身にとっては感慨もひとしお。

そしてもう一人、船を救ってくれたナイフ使い。卒業後パイロットとなったワイルド・Bは事故で若くして散った。彼を知る人物ならそのことに驚きはしない。何を恐れることもなかった彼だ。いまごろは天国でラビオリを堪能していることだろう。