士官学校入学式: 民間人としての最後の日

アナポリス米国海軍兵学校の入隊宣誓式

 6月。アメリカではもう夏休みである。梅雨もない。学年度末であるから宿題もない。
あり得ないくらい羨ましい。
 だが安心して欲しい。士官学校は日本の文科省と同じくらい生徒を遊ばせる気がない。
入学を許可されて喜んだのもつかの間、最初の試練(プリーブ・サマー)がやってくる。

夏。高校のプロムも卒業式も無事に終り、普通人であればのんびり大学入学までのモラトリアムを楽しむ時期。しかし士官学校に受かってしまったからにはうかうかと遊んでなどいられない。6月も終わらないうちにしっかり新入生夏期訓練が始まる。何しろ秋の新学期が始まる「前に」覚えねばならないことは山ほどある。

 まず、夏期訓練自体について行けるよう最低2ヶ月前から体力トレーニングを実行するよう当局からお達しが来る。セット数とインターバルの秒分まで指定された鍛錬内容と毎日のスケジュール詳細付きで。正しい腹筋運動や腕立て伏せの姿勢の写真はもとより、ウォーミングアップの柔軟体操のポーズ集まで入っている司令書だ。体力テスト不合格者=退学、の警告付きで。ここまでされて、まさかちゃんと見てませんでしたでは済まされない。
 本当ならこの辺で「おや?」と思うべきなのだが、おちゃらけた高校生にとっては物珍しさが先に立つばかりで、この文書からその後の自分の生活変化に思いが馳せられるほどの人生経験はまだない。

入学式の日、ゲートは朝5時から開く。全国津々浦々から集まって来た士官候補生候補(直訳だとそうなる。見習いというところか)達は書類に記入された時間ぴったりに受付に申告せねばならない。そこに朝6時00分と書いてあったら何が何でも6時きっかりかっきりなのである。飛行機が遅れただの道が混んでいたなどと言い訳は出来ない。7:30だったら7時に行っても無視される。危険回避のために前日より近辺に宿泊する必要がある。アナポリスは観光地でホテルもたくさんあるが、ウエストポイントなんて周囲が州立公園のジャングルである。どうしてもといえば前日の夜のみ学生寮に泊めて貰えるが食事も何も出ない放置プレイ。先に来ているからといって早めに手続きを済ませるなどということは許されない。

丸坊主にされる新入生これで毎朝ブロードライする時間が浮く。
だが笑っていられるのも今のうち。

 そして民間人の生徒は家族から引き離され、士官候補生見習いとなるべく一斉に連行される。入学というか入隊式のこの日、夕食前に宣誓式が始まるので、それまでになんとか体裁を整えねばならない。
 まあ初日から完璧に軍隊式の受け答えや整列が出来るわけはないのでとりあえず形から入る。まずは丸坊主。(女子は髪が肩に付かない程度のボブ)支給された制服の着方を教わる。下着*からメガネ(視力に劣る自分を呪いたくなるくらいダサい)まで支給品。計算機と家族写真と医薬品以外の私物はまとめて自宅へ送り返される。さようなら、僕のニンテンドー3DS。

水兵帽の被り方を伝授される士官候補生帽子の縁は鼻の上指二本分の間隔。
それ以下も以上も不可。
敬礼の指先も帽子の縁を基準にするので位置は重要

続いて洗濯物のまとめ方、クリーニングへの出し方、部屋の片付け方を教わる。背筋の伸ばし方を叩き込まれる。行進は各班身長順に3列縦隊。正しい敬礼の角度&手の平の向きを教わる。視線を向ける方向を正面のみに制限される。同時に周囲の動向に気を配るよう求められる。廊下の曲がり方を直角のみに制限される。江戸城登城の儀ですね。返答を5種類に制限される。いわゆるサー・サンドイッチ(サー、イエスサー。サー、ノーサー。端唄ではない。抗弁のしようもございませんサー、確認致しますサー。直ちに実行致しますサー。沖縄人でもない)である。私語どころか自分から上級生や教官に話しかけることは許されない。どこの宮廷作法だよ。

三列縦隊を練習するアナポリス新入生身長順に三列縦隊での移動が基本の夏期訓練
行進前に服装や姿勢に上級生からの指導が入るが
どう見ても日本の小学生の方が上手

 こうして一介の生徒から候補生未満への変態中、父兄向けに式典だのピクニックだのバンド演奏だのが催される。この日はInduction day、 I-Dayと呼ばれる。ウエストポイントではR-Day。D-Dayほどではないが人生は大きく変わる。だがあろう事かほとんどの親は朝から買い物にいそしんでいる。普段一般に公開されていない候補生向けのよろず屋に入れるからだ。人気商品はすぐ売り切れる。授業料が浮いた分大盤振る舞いである。また親戚一同と御近所に自慢するべく、バンパーステッカーやTシャツの類も購入する。当事者以上に親の方が浮かれているのが常だ。卒業までに入学者の1/3は脱落する統計[注1]などすっかり忘れている。

さて、再会する頃には息子も娘もだぶだぶの水兵さんルックで登場となる。(水兵帽は夏期訓練の間のみ。普通の制帽は夏期訓練が終わるまでお預け。)
入学式のメインイベントは宣誓式**。憲法を脅かす国内外の全ての敵からそれを擁護し、忠誠と義務を果たす旨を誓う。アメリカ人は小学生の頃から毎朝このての誓いを国旗に向かって暗唱させられているので慣れたものだ。何十年経ってもすらすらと口をついて出る。結婚記念日はどうしても覚えられないのだが。

そして夕方宣誓式が済むと、家族にお別れを言う時間が30分間与えられる。これが民間人としての最後のひとときである。これ以降はたとえ軍を辞めたところで昔の軽い人格には一生戻れない。まだ誰も気がついてないだろうけど。御愁傷様です。

さらに父兄が門の彼方に消えると、ついに地獄の釜の蓋が開く。それまで優しかった最上級生指導官達の態度が豹変する。せっかくの夏休みなのに、お盆まで面倒な民間人新入生のお守りをさせられる可哀相な一握りの方々であるから無理もない。ここで優しくすれば変につけあがる奴が出るのが判っているしね。怒鳴られる前にさっさと自室に戻っておとなしくしてりゃいいものだが、なんといっても数時間前にたった一回ちらっと通りすがっただけの部屋である。しかも夏休みなので世界一の巨大な寮のたっぷり4棟があてがわれる。廊下はどこもほぼそっくり。哀れな奴だと自室がどこだか覚えてるわけもなく、うろうろしてるところを上級生に見つかり一晩中いたぶられる事となる。

 そして、たぶん生まれて初めての軟禁生活が始まる。例えば今年のアナポリス兵学校の入学式は6月28日。そして、夏の教練期間6週間中、自宅に電話出来るのは3回。7月8日と22日の日曜の午後1:15から1:45、そして8月4日の午後2時から2:30の間だけである。これ以外の日時はたとえおばあちゃんが臨終間近でも家族も本人に直接連絡は出来ない。スマホ?なにそれおいしい?

かつてはこの新入生夏期訓練が8週間だったので、当然ながら8週間組は「本当のプリーブサマーを経験したのは俺達が最後だ」とか「今時のプリーブサマーは手ぬるい」と言いますが、6週間でもいまどきの普通の高校生には大変なので我慢してやってつかあさい。彼らも卒業したら自慢するんだろうな、2012年のクラスはこんなもんじゃなかった、とかなんとか。プ。

昼ご飯のメニューを暗記する新入生昼食の結構細かい献立表をメモって暗記中
訊かれて詰まれば食べるヒマがなくなる

 まあこの時期は単に肉体的に忙しいだけでそれほど精神力を試されるわけではない。もちろん今まで好き勝手をして来た学生がいきなり規則正し過ぎる準監禁生活に投げ込まれるのだからそういう意味ではストレスだろうが、何しろほとんどの上級生は夏休みで不在。夏期訓練の指導をしている最上級生は訓練生35人につき5人くらいの割合である。しかも夏期訓練の指導員は第一期と第二期で総入れ替えされる為、もしもどなたかのご不興を買ったとしても3週間の我慢である。それに各班直属の指導官は自分たちの面倒を見てくれる兄とも親とも言える存在で、意地悪なことはまずない。それが新学期が始まれば一年生1名につき上級生3人と数が大逆転する。中には意地くその悪いの(炎上魔=フレイマー)もいて精神疲労が始まる。こういう先輩は大抵自分に自信のない連中であるから始末に負えない。そしてお盆も過ぎた頃炎魔様ならぬ上級生様が帰ってきて新学期が始まる。本格的な授業も開始され、運動部活動(全員必修)も毎日こなさなくてはならなくなる。時間との戦いが始まる。

ついでに言うと1:8で教官も多い。だから一クラスは10−20人くらいで細かく行き届いた授業が出来る。そんな中で寝ているわけにはいかないし、疲れたからといって授業をサボって自室で昼寝するような人間もいない。今まで話を聞いた時代の違う卒業生達にとっても、なぜ誰もバックレる奴がいなかったのか不思議だという結論に至った。しかし寝ている生徒がいないことに驚いている某大交換留学生の報告書にこっちは驚いた。某A大って授業中寝てていいの?税金泥棒?すごい授業がつまんないとか?

つまらない集会でつい寝てしまった士官候補生達授業は耐えたが集会のパワポ・デスマーチに轟沈
部屋暗くしてスライド三昧の某A大様御愁傷様です

 まあ海外の士官学校だって授業が特別面白いわけではなかろうが、あとで同じことを二度勉するような時間の余裕はまったくないので、どうせなら授業中に全て理解し記憶し疑問点はその場で教官に訊くくらいでないと学業不振で放校の憂き目に遭う。それが嫌なら恥を偲んで英語(国語)や歴史などの簡単な専攻、いわゆるブル・メイジャーを選ぶべきだ。そうすればガリ勉を余儀なくされている同級生を尻目に自習時間にTVを見るなどという王侯貴族のような栄華を極めることができる。

士官学校の最上級生が卒業後の進路を選ぶイベント艦隊勤務を希望した4年生が乗艦を選ぶ。これも成績順。
先に取られたらおしまい。

 実は将来の就職先も受入数が決まっているため4年次の成績順に希望部署を選んでいくので、人気のパイロットになりたいなら難関である艦船設計などを取ってはならない。また、お局的な教官のいる専攻も危険である。こういう奴はいまだに配属に采配を振るえる政治力を持っていて、これに嫌われたらどんなに成績が良くても希望の職につけない場合がある。
 例えば潜水艦乗りになりたいなら間違っても言葉を交わしてはならないジジイ***アドミラル・リックオーバー。原潜の父。米海軍潜水艦に乗る士官を一人残らず面接し、その比類なき権力でもって士官学校首席卒業だろうがなんだろうが好き勝手に採用不採用を決めていた。理由は当然非公開で、誰にも理解出来ない事も多かった。が昔いた。模範的な士官候補生がこいつの一言で一生の夢を棒に振る前例を作りまくった因果な奴である。まったく面識がないに越したことはない。しかしこいつが最終面接を強要する。機密が多い潜水艦の乗員は性格素行から家族の思想背景までチェックされるから、事前にワシが適性を見てやろうという要らぬ世話。これがせめて一年生の時だったらまだ諦めのつこうものを。ちなみに教官といっても割合は半官半民。民だから優しいとは限らない。

 さて、この夏期訓練(プリーブ・サマー)期間中は体制への疑問など決して思い浮かばないよう、思っても深く考えるヒマがないようにめったやたらと忙しい毎日のスケジュールが組まれている。起床は0530。普通に授業も受けるのだが、始業前も終業後も散々運動させられる。移動は全て団体で駆け足。体力もだが精神面で一年次を乗り切る為の最低限のストレス耐性があるかどうかが問われる。詳細は次回以降に。

この夏期訓練がいわゆるブートキャンプぽい内容なのでずっと4年間これが続くと思われている節があるが、とんでもない間違いである。新学期が始まれば学業が最も大事になる。士官学校は国立の結構レベル高い大学(大学校/兵学校・・ああもうどれでもいいや)ですからね。このプリーブサマーというのは夏のラジオ体操のようなものである。早起きと体力造りの習慣を守らせ秋の新学期に備えるための。
ショック療法に近いが、民間人に規律や職業倫理を教えるのはことほど左様に難しい。

 何だかあんまり面白い逸話がなくてすみません。まあ入学初日から話題になるほどの大物では卒業は無理だろうから無理もない。有名人の伝説的エピソードなんて後付けに決まっとるがな。だが、この6週間でさっさと見切りを付けて民間で有名になった人達は大勢いる(笑)

ママス&パパスのカリフォルニア・ドリーミングはこのプリーブサマーの憂鬱を表現した曲、しかも行進可能だという噂である。寮でギター弾いてるジョン・フィリップスは目立ったようだ。他にもNFLのスーパーボウル勝者とか目立つ所にいるのだが、わざわざやめたと言いふらす奴は少ない。敗北主義者と呼ばれるのは恥だからね。でもその思いきりのよさが成功につながったとも言える。士官学校に入れた時点で能力は充分。分野を選ばず成功が待ってる若人ばかりが入学を許されるのだから。

注1:実際は近年の卒業率は85%程度。これはまず軍でどの程度人員が必要かという予測に合わせて入学者数を調節するのと、アメリカの大学の評価として卒業率の高い方が良いとされる傾向が目立って来た為かと思われる。士官学校が迎合してどうする。
70年代は下手すると4割、80年代に3〜2割が落伍したのとは大違い。これが出来のいい生徒が増えて脱落者が減ったのなら嬉しいのだがそーでもないからこんなサイト捏造しちまったんでげす。

第二次大戦中の米海軍婦人部隊の制服WWIIのWAVES in 1941

  ちなみに今年の米海軍兵学校の女性入学者数は最多の300人超え。ただし、一般の大学では有意に高い女子の卒業率が士官学校では軒並み低い。最初に下駄を履かせてもらったものの授業レベルについて行けなかったのではないかとの公式報告。もー入試は全部実力勝負にすれば、女性士官は見ただけでエリートとして尊敬されるようになってカッコいいのにー。どうでもいいけど女性用の米海軍の制服は萌え要素皆無。これで3割がた入学希望者減ってるとみた。1941版の可愛さとは大違い。

注*:女子のブラは自前。少なくともウエストポイント陸軍士官学校では。あまりにもサイズがバラエティに富んでいて支給は税金の無駄だという結論に達したのだろう。「さらし」ならフリーサイズなのだが。

注**:この宣誓式で「君の左右に並んでいる候補生を見たまえ。諸君が卒業する時にはそのうちの一人はもういないのだ」と言われて皆結構感銘するのだが、1/3が脱落するからこその言葉で、これが「君の左右前後とできたら斜め前の候補生も(ry 」じゃちょっと...。ま、伝統だから毎年頑固に「左右」って言ってそう。

注***:アドミラル・リックオーバー。原潜の父。米海軍潜水艦に乗る士官を一人残らず面接し、その比類なき権力でもって士官学校首席卒業だろうがなんだろうが好き勝手に採用不採用を決めていた。理由は当然非公開で、誰にも理解出来ない事も多かった。


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